2025/11/21
十二月の冷たい雨が、鉄骨の影を濡らしていた。
現場の仮設事務所に貼られた「労災ゼロ 365日達成」の横断幕が、風にふわりと揺れる。
その日の午後、現場の片付けが終わり、社員たちは会社の忘年会場へと車を走らせた。
忘年会は毎年、駅前の小さなホテルの宴会場で開かれる。
四十名を超える社員と協力会社の職人たちがずらりと並び、湯気を上げる鍋と焼き鳥の香りが会場を満たしていた。
誰もがこの一年を乗り切った安堵と、年末特有の浮ついた気分に包まれている。
乾杯のあと、社長が立ち上がった。
白髪交じりの短髪に、日に焼けた顔。建設一筋四十年の男だ。
マイクを持つと、いつもよりゆっくりとした口調で話し始めた。
「今年も一年、本当にご苦労さんでした。皆さんの努力のおかげで、こうして“労災ゼロ”を達成することができました。」
会場のあちこちで拍手が起こる。
それは義務的なものではなく、自然と湧いた誇りの拍手だった。
社長は少し間を置き、静かに続けた。
「現場はいつも危険と隣り合わせです。雨の日も、真夏の炎天下も、皆が注意を重ねてくれた。その積み重ねが、今日につながっています。」
隣で聞いていた若手社員の翔太は、胸の奥がじんと熱くなった。
入社二年目。まだ何もかもがぎこちない自分を、先輩たちは何度も助けてくれた。
夏の日、足場でバランスを崩しかけたとき、すぐに腕をつかんでくれたのも、今この場にいる職長の岡田だった。
社長はグラスの水を一口飲み、少しだけ笑みを見せた。
「究極を言えば、私としては――そのために仕事を頑張っているようなものですからね。」
会場が静まり返る。
社長の目が、社員たち一人ひとりを見渡していた。
「そのため」とは何を指すのか、誰もが心の中で答えを探した。
やがて社長は、ふっと視線を落とし、言葉を継いだ。
「みんなが無事に家に帰って、家族と笑って年を越せる。それが一番です。会社が儲かることより、建物が早くできることよりも、何よりも大事なのは“命”です。皆が生きて、また来年もここで顔を合わせること――それが私にとっての仕事の意味なんです。」
一瞬、空調の音だけが響いた。
次に聞こえたのは、どこかの席からこぼれた拍手だった。
それが波のように広がっていく。
職人たちがうなずきながら手を叩き、翔太もその中にいた。
彼は思った。
“この人の下で働いてよかった”――と。
現場で飛ぶ罵声も、朝の厳しい点呼も、すべてはこの一言のためにあったのだ。
宴が進むにつれ、笑い声が戻った。
だが翔太の胸の奥では、まだ社長の言葉が響いていた。
来年も、再来年も、自分の手で誰かの安全を守れる人間になりたい。
その決意を胸に、翔太はグラスを掲げた。
「来年も、無事故でいきましょう!」
その声に、皆が応えた。
「おう!」と声が重なり、鍋の湯気の向こうで、笑顔が一斉に弾けた。
外はまだ雨が降っている。
だがその夜、会場の窓の内側だけは、確かに温かい光で満ちていた。

編集後記
建設の現場では、日々の「無事故」がどれほど尊いかを知る人たちがいます。
それは、“安全第一”というありふれたスローガンではなく、一人ひとりの帰りを願う祈りのような言葉です。
この小説『一年無事故』は、その祈りの姿を描きたくて生まれました。
💬 挨拶に使える例(要約・応用)
この小説の社長の言葉や雰囲気は、安全大会の挨拶の材料になり得ます。
例えば、安全大会の挨拶に使うなら、こんな構成が考えられます👇
皆さん、今日もご安全に。
私たちが一年間、事故を起こさずに現場を終えるというのは、数字の成果ではありません。
一人ひとりが気を配り、仲間を思い、そして“無事に家に帰る”という当たり前のことを守ってきた結果です。
究極を言えば、私としては――そのために仕事を頑張っているようなものです。
皆さんが笑って家族と食卓を囲めること、それが一番の報酬です。
こういう言葉は、社長や現場監督が語ると本当に重みが出ます。