安全大会の挨拶とヘルメット

協力会会長、元請け社長の立場での安全大会の挨拶のお役立ち情報をお伝えしています。

「人のせいにしない」と「その人の責任」は両立するか

time 2026/02/26

前回、「ヒューマンエラーが関わらない事故は、ほぼ存在しない」という記事を書いた。統計上、労働災害の96%以上に人間の不安全行動が関与している。だからこそ、個人を責めるのではなく、エラーが起きても事故にならない仕組みを作ることが重要だと述べた。

今回は、少し別の角度から考えてみたい。

「人のせいにしない」は万能か

前回の記事で、私はこう書いた。

「事故が起きたとき、『あいつがミスをしたから』と個人を責めるのは簡単だ。しかし、それでは何も解決しない」

「重要なのは、『なぜその人はミスをしたのか』『なぜそのミスが事故につながったのか』を掘り下げることだ」

これは仕組みづくりの観点からは、まったく正しい。同じ事故を繰り返さないためには、個人の責任追及で終わらせず、組織的・構造的な要因に手を打つ必要がある。

しかし、ここで一つの問いが浮かぶ。

「人のせいにしない」という姿勢は、「その人に責任がない」ということを意味するのだろうか。

責任の領域は、立場によって異なる

現場を考えてみよう。

現場の担当者がいる。現場監督がいる。建設会社の部長がいる。社長がいる。

それぞれの立場には、それぞれの責任の領域がある。

現場の担当者には、自分の作業を安全に遂行する責任がある。現場監督には、現場全体の安全を管理する責任がある。部長には、組織として安全体制を整える責任がある。社長には、会社全体の安全文化を形成する責任がある。

事故が起きたとき、「人のせいにしない」という姿勢で仕組みを改善するのは正しい。しかし、それは各立場の人間が自らの責任を免れることを意味しない。

確認を怠った担当者は、確認を怠ったことの責任がある。現場の安全を見落とした監督は、見落としたことの責任がある。それぞれが自分の責任を認め、引き受けることと、組織として仕組みを改善することは、別の話だ。

「仕組みのせい」にして終わらせてもいけない

前回、私は「ヒューマンエラーを原因として終わらせてはいけない」と書いた。それは思考停止だからだ。

しかし、同じことが逆方向にも言える。

「仕組みが悪かった」「組織の問題だ」と言って、個人の責任を曖昧にすることもまた、思考停止ではないか。

事故の背景に組織的な要因があったとしても、最終的にミスをしたのは人間だ。確認を怠ったのは、その人だ。手順を省略したのは、その人だ。危険を見過ごしたのは、その人だ。

その事実から目を逸らして「仕組みが悪い」とだけ言うのは、責任の所在を霧散させてしまう。

責任を負うことと、責めることは違う

ここで区別しておきたいことがある。

「責任を負う」ことと「責める」ことは、同じではない。

「責める」とは、相手を非難し、罰することだ。「お前のせいだ」と糾弾し、処分する。これは確かに、仕組みの改善にはつながらない。責められることを恐れて、ミスを隠す文化が生まれる。

しかし、「責任を負う」とは、自分の行動の結果を引き受けることだ。「私の確認が不十分だった」「私の判断が甘かった」と認める。それは非難されることとは違う。自分の行動を正直に振り返り、そこから学ぶことだ。

前回の記事で私が批判したのは、個人を「責めて」終わりにすることだ。個人が「責任を負う」ことを否定したわけではない。

責任を負うことが、仕組みの改善につながる

むしろ、各人が自分の責任を正直に認めることが、仕組みの改善への第一歩になる。

現場の担当者が「確認を怠った」と認める。そこで終わりにせず、「なぜ確認を怠ったのか」を掘り下げる。時間に追われていた、手順が複雑すぎた、疲労が蓄積していた。そこから仕組みの改善が始まる。

しかし、担当者が「自分は悪くない、仕組みが悪い」と責任を認めなければ、掘り下げは進まない。自分の行動を正直に振り返ることが、背景要因を明らかにする出発点になる。

同様に、現場監督が「私の管理が不十分だった」と認める。部長が「安全教育の体制に問題があった」と認める。社長が「会社として安全への投資が足りなかった」と認める。

それぞれの立場の人間が、自分の責任の領域において、正直に行動を振り返る。そのことが、組織全体としての改善につながる。

「誰も悪くない」は、誰も学ばないことと同じ

「人のせいにしない」という姿勢が行き過ぎると、「誰も悪くない」という結論に至りかねない。

仕組みが悪かった、環境が悪かった、教育が不十分だった。すべてを組織や環境のせいにして、個人の行動は問わない。

しかし、それでは誰も自分の行動を振り返らない。自分の判断を検証しない。自分のミスから学ばない。

事故の再発防止には、仕組みの改善と個人の学びの両方が必要だ。どちらか一方では足りない。

相応の責任を認める文化

私が提案したいのは、「相応の責任を認める文化」だ。

各立場、各人には、それぞれの責任の領域がある。その領域において、自分の行動を正直に振り返り、責任を認める。それは罰を受けることではなく、学びの出発点だ。

同時に、組織として「なぜそのミスが起きたのか」「なぜ事故につながったのか」を掘り下げ、仕組みを改善する。個人の責任追及で終わらせない。

この二つは矛盾しない。むしろ、両方が揃ってはじめて、本当の意味での再発防止が可能になる。

「自分は悪くない」と思い続けることの危うさ

最後に、一つだけ付け加えたい。

もし、現場で事故に関わった人が「自分は悪くない、仕組みが悪かったのだ」と思い続けるとしたら、それは危うい。

確かに、仕組みに問題があったのかもしれない。背景要因があったのかもしれない。しかし、自分の行動を振り返らず、「自分は悪くない」と思い続ける人は、同じミスを繰り返す可能性がある。

逆に、「自分の確認が不十分だった」と認め、「次は必ず確認する」と心に刻んだ人は、同じミスを繰り返しにくい。

個人の責任を認めることは、その人自身を守ることでもある。

まとめ

「人のせいにして終わらせない」という姿勢は正しい。しかし、それは「その人に責任がない」ということを意味しない。

現場の担当者、現場監督、部長、社長。それぞれの立場には、それぞれの責任の領域がある。各人がその責任を正直に認め、自分の行動を振り返ることと、組織として仕組みを改善することは、矛盾しない。

「責める」ことと「責任を負う」ことは違う。責めて終わりにするのは思考停止だ。しかし、誰も責任を負わないのもまた、学びの放棄だ。

相応の責任を認める文化。それが、仕組みの改善と個人の学びを両立させる鍵になる。

なお、安全大会での挨拶やスピーチでは、こうした多角的な視点を踏まえた原稿づくりが求められる。私たちは、このような考察を土台にした安全大会挨拶の原稿作成も手がけている。

この記事を書いた人

ニーバーオフィス

挨拶原稿会社の代表者です。安全大会での挨拶について、多くの協力会の会長さん、元請けの社長さんのご助力をしてきた経験から、挨拶の内容やアイデア、マナー、それから安全大会がどのようなものかなど、さまざまお伝えしています。